動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

*ビッグ・ベア 救え!小さな仲間たちと不思議の森 

ビッグ・ベア 救え! 小さな仲間たちと不思議の森 [DVD]

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また怪しげなクマのCGアニメが出たな〜と思いながら、借りてきた。

デンマーク語の音声が入っているので、その辺の映画かしら。

 

ざっくりあらすじ

兄妹げんかがエスカレートして森へ迷い込んでしまった兄妹は、

そこで想像を絶する巨大なクマと出会う。

兄は二人で家に帰ろうとするが、妹は兄を拒絶し、クマと仲良くなっていく。

そこで、兄はクマ殺しの狩人に依頼して妹を連れ戻そうとする…

みたいなやつ。

 

前半はすごくゆっくり時間が流れて、

すごく丁寧に兄妹の信頼感が引き裂かれていく様を描いていて、

よくあるヨーロッパ系ダラダラ映画かと思って心配したんだけど、

クマが出てきてからは凄いサクサクでおもしろくなっていく。

そして、前半にダラダラと使われていたいろいろなモチーフが

後半に一気に出てくるので、爽快感もある。

 

熊撃ちを逆の立場から描く、というアイデアに兄妹ゲンカを交える

テクニカルな構成は、現代の動物映画的で非常に興味深い。

 

まあ、文句なく良作かというと、

「期待しないでみると、すごく度肝を抜かれる」

っていう域の作品であることは否めないけど、

なんか大作と一緒に借りてきて息抜きに見ると、意外と好きになると思う。

っていうか、クマのビジュアルがすごいかっこいいので、それだけでもぜひ。

 

1800円でみる価値があるかについては、

熊撃ちもので1500円。

クマのビジュアルで+200円。

兄妹の心理描写が飽きさせないので+100円の

1800円としておこう。

 

久しぶりに感想を書いた。

 

ペットとか、ルドルフとイッパイアッテナも見てるんですよ。

あと、アングリーバードも。

ズートピア あるいは ずるいキツネ論

いつものような、心の赴くままに動物映画を礼賛する感想を書くのが難しくて苦しんだので、今回は、飾り気のない素直な感じで書いてみたい。

僕が3回ズートピアを見てきた感想と思い込みの変遷を、わかるように書いたつもりだ。
もちろん、このブログのほとんどがそうであるように、ほとんどは未来の自分に向けて書かれている。
でも、こんなに動物の物語に一喜一憂する人達がいるということを、知ってくれる人がいたらそれはとても嬉しいし、ズートピアを見てほしいと思います。


☆☆☆

ズートピアを見た時、人生が忙しかったので、あまり言葉にはできなかったけど、

「ありそうでなさそうだけど、やっぱりありそうで、やっぱりなかったタイプの動物映画」

だと思ったという内容のメモが残されている。
それは、具体的には、2つの相容れない感情だったように思う。

 

1つは、「完全に新しい動物の物語」としてのズートピア
ズートピアによって、20世紀の動物の物語は全て滅ぼされたと思った。

もう1つは、「ルネッサンス」としてのズートピア
ズートピアは、全くの古典的な動物物語を、現代性をくわえて成功させた。

この2つの着地点の間で感想が揺れ動いて、全く答えのでなかった1ヶ月だった。
それから都合3回視聴して、最後には結局、同じ板挟みに戻ってきた感じはあって、その迷いこそがズートピアの素晴らしさなのかなあと思うに至った。

その話がしたい。

 

① 僕が最初に思っていた、ズートピア

ニック・ワイルドの存在こそが、このズートピアの全てだと思った。
それにはいくつか理由があるけど、無理やり一言でまとめると、

あまりにオールドスタイルかつ、ファンタスティックなキツネのキャラクターを、ズートピアの「歴史なき楽園」と、「古臭いキツネ観」との噛み合わなさに立脚させているから

ということにでもなるのだろうか。
それを、ひとつずつ説明させてほしい。


・歴史なき楽園の物語

まず、ズートピアは冒頭で、動物たちがついに築き上げた楽園という説明がなされる。
ここに既に、二つの動物物語の新しさがある。
一つは、『ポスト楽園世代の物語』
もう一つは、『語られないオリジン』だ

 

古来より、動物の物語は、「楽園」と「神話」こそが世界の中心だ。
動物たちは、彼らが「彼らであるための」神話を持ち、オリジンを持つ。
それによって、世界を理解している。
そして、彼らが彼らであるための世界ーー「楽園」を求めて、苦難の旅を続ける。
動物の多くの物語が、それを踏襲している。


でも、既に楽園は目の前に存在し、
さらに創世神話は、さもどうでもいいことのように切って捨てられるのが
ズートピアの新しさだ。


何があったのかはともかく、もう、動物たちは実際に「生きている」のである。
人間と同等の文化、技術を持ち、言葉をしゃべる。
なぜそうなったかは、誰も語らない。
過去や動物観にとらわれず、目の前の未来を目指して生きる。
そんなキャラクターとして、主人公のウサギ「ジュディ・ホップス」は描かれていた。
冒頭の5分、既にこの時点で、
僕はすごく自分が動物映画ファンとして時代遅れになっていることを痛感させられていた。


・ 古臭いキツネの物語

詐欺師 ニック・ワイルドはずるいキツネだ。
このキャラクターは、冗談じゃなくひと目で気に入った。

僕が……というか、多分、動物の物語が好きな人たちのほとんどが、
キツネという動物のキャラクターに求めているもののすべてを持っていたから。

しなやかさ、賢さ、捕食者としての強さと肉食獣としての弱さ……
ずるく賢いキツネは、狐物語、ルナール、ライネケ、
それらの神話的キツネ生物を下敷きにしたディズニーのロビン・フッド……
その、すべてのかっこよさをつめあわせたような、
まさに現代のトリックスターとしてのキツネのキャラクターがそこにいた。
なんというファンタスティック。

そんな感動と同時に、僕は、この鮮やかさに、すごく違和感を覚えていた。

 

僕たちは、確かに「ずるいキツネ」を求めていた。
でも、なんで、動物観や歴史を無視した世界で、
「ずるいキツネ」という古典的動物観だけを、残したのだろう?
この21世紀に、「キツネ=ずるい」なんて動物観を持ってる人が、一体どれだけいるんだろう?
さっきまで、お前の動物観は古いんだよ!って、あんなに殴ってきたのにさ!
という思いだ。
ニックは、立ち居ちとしても、メタな意味でもアウトサイダーなキャラクターだ。

 

本当にこのとき、僕は心臓がドキドキしていた。
「いったい、ズートピアはこのキャラクターをどうするつもりなんだろう?」って。

そんなことを気にしている間もなく、
いきなり彼はジュディに夢を持つことの厳しさ、ズートピアの現実を教える。
それは、彼自身が夢を持っていることの表現ではあるのだけど、
やはりそのシーンで強烈に印象に残ったのは、
ズートピアで夢をつかめなかったものは、なんで古い動物観から抜け出せないんだろう?」
という違和感だった。


結局、そのずるいキツネへの違和感は、最初の視聴では消えることがなかった。
なので、僕はニックとズートピアの関係を無理やり次のように整理した。

ズートピアはキツネのトリックスターという古いキャラクターを描くための舞台装置にすぎない」

「僕がこんなにもこのずるいキツネを愛するように、監督も、ずるいキツネがたまらなく好きだったんだろう」

それが、ニックが主人公であると考えた理由である。

 

ただ、理由は、それだけじゃなくて、
自分がこれまでに見てきた動物映画と、ディズニー映画の歴史というものも、
この考えを強く支持していた。

・動物映画としてのズートピア

正直に書けば、ズートピアが動物の表現の映画として
すごく新しいことって、そんなにはなかったと思っている。

動物たちが暮らす街。
動物たちの、それぞれの生態にあわせた暮らし。
その生態に合わせた文化。
その、生態にあわせた言葉遊び。

今まで、すべての動物映画がやってきたことだ。

動物を使って人間社会の問題を描き出す。
これだって、少なくない動物映画がやってきたことだ。

ガゼルのような動物界のトップディーヴァですらそうだ。

本能を描かない動物映画も、少ない。
そういう政治性や動物表現がズートピアの新しさでは、僕はないと思っている。
(僕だけじゃなくて、動物映画ファンはそう思うんじゃないだろうか)

 

そして、そんな動物の動物らしさの表現は、
ジュディがズートピアに来たあたりまでは強調されていたけれど、
ニックとジュディの二人の物語になる中盤からはパタッと鳴りを潜める。

この、「あえて頑張らない感じ」みたいなのも、
僕がズートピアそのものが、ニックのためにあると判断した理由だ。

ただ、動物映画として決定的にエポックメイキングだったのは、
ウサギとキツネの異種間ラブストーリー。

これは、本当に、今までどんな動物映画もやらなかった。
しかも、誰もが認める圧倒的な完成度と説得力で、それを表現した。
だから僕は、ズートピアはニックのための物語だと思った、ということだ。


・ディズニーのプリンセス映画の系譜

別にディズニーのことを語るブログではないので、あくまで最小限に留めるけど、
僕が見てきたディズニープリンセス映画の歴史は、
物語的女性像から人間としての強さを加えながら、
何度も生まれ変わってきた50年といえると思う。

 

1人で考える人間、1人で解決する人間、時には相手を殴る強さをもてる人間……
特に21世紀のプリンセス観の成長は激しい。
ラプンツェルこそが、3週目にして最強のディズニープリンセスだと僕が思っているのはそういうことなんだけど。

そんなプリンセスの激化とともに、「ヒロイン」に格落ちした感のある「王子様」たちは、どんどん相対的にキャラクター性を失っていった。
アナと雪の女王を思い出しますね)

だから、というのは変だけど、
この辺のキャラクター性の差に対する考えから、
自分の中でジュディは、残念ながら物語をすすめる「主人公」以上のキャラクターと感じてはいなかった。

だってニックが複雑すぎたから。
そんなわけで、僕はニックこそズートピアが描きたかった全てだと信じきっていた。

 

その調子で、クライマックスのシーンの話をさせてもらうと、
本来、ニックの視点によって語られるべきだと思っていた。
それは、動物映画が描いてきたもう一つの側面、「野生本能の表現」ということや、
その亜種である「ワーウルフもの」を下敷きにしたシーンだと考えたからだ。
(俺が怖いか、というシーンは、その象徴だと思う)

でも、それをニックの視点から描くと、「ニックの個人的な内面の物語」になってしまい、ジュディの視点が導いた「ズートピアが描く多様性社会」という良さが消えてしまう。
そういう、極めてロジカルな判断により、
ニックの内面を描く物語は、姿を消したと僕は考えた。
そして、その瞬間に、日本人が得意とするウェットな動物物語が、
「一命を取り留めた」と思ったのだった。
劇場で1人、ひどく安心したのを覚えている。


そんなこんなで、
今までありそうでなかった古典的動物キャラクターの斬新な関係性を強調した、
「理由を求めない時代の最強の動物物語」として、僕はズートピアを視聴した。

 

だって、しょうがないじゃん。

キツネとウサギがラブラブなんてさ。

だれだってそう思うと思うよ。

 

☆☆☆


②僕が完全に見逃していたもの

実は、僕は3回この作品を見ても、見逃していた要素があった。
そのことがショックだったから、感想がまとまらなかったんだけど、
そんなカッコ悪さを、正直に書けばいいと思ったから、こうして話ができている。
その、見逃していたものとは、「博物館」だ。
物語の象徴的な舞台となる「博物館」の、
その展示にズートピアの歴史が表現されているという指摘を読んで、
言い尽くせない衝撃をうけた。

衝撃は3つ。

1つ目は、ズートピアの歴史は意図的に無視されていると思っていたけれど、作中でしっかり語られていたこと。

2つ目は、それによって、今まで「強引に作り上げられた」と考えていた、
ニックというキャラクターが、ロジカルな存在だったという驚き。

3つめは、「これ以上は語られないだろう」と、達観した気持ちでいた自分の気持ちへの残念さだ。


博物館の展示は、
その歴史上の重要人物であるはずのゾウの王様みたいなやつを筆頭に、
肉食獣と草食獣の闘いの歴史について描いている。
草食獣たちが武器を持って、凶暴な肉食獣に立ち向かう様子が描かれているのだ。
それを、「ズートピアの歴史が誰によって語られていたか」という視点で看破した人がいた。

完全にその通りだと思った。
すなわち、ズートピアの歴史は、草食獣によって語られていた。

とするとだ。

僕がずっと感じていた、歴史なき時代の古臭い価値観という違和感……
つまり、ずるいキツネ像そのものは、草食獣によって語り継がれてきたイメージだったのだ。自分はいつの間にか、肉食獣のものの見方になって、
「このズートピアで言われもない差別なんて」という気持ちになっていたのだ。
ズートピアで何者にもなれず、ずるいキツネ像に縛られて生きるニックとは、
そんな歴史によって裏打ちされたキャラクターであった。

 

だから、すべての構成はそのためにあった。
動物物語の伝統を裏切り、歴史を切り捨てたように見せたのも、そのためのトリックだ。
そこに、まんまと騙されてしまった。
トリックは、動物物語という芸術を象徴する最大の武器の1つだ。

そして、トリックはキツネの武器の1つだ。
そんな伝説の武器をしっかり振り回してまで、ずるいキツネを描きたかった、

そして彼を幸せにしてあげたかったという、
キツネによる、21世紀のキツネたちのための物語。
このズートピアはそんな作品だったということだ。


おめでとう、21世紀の世界はキツネのものだ。
そりゃ、ウサギの嫁さんだってもらいますよ。
お手上げです。
これが、ズートピアの僕の最後の感想でいいと思う。

 

☆☆☆ 

 

③そして、今。

ニックとジュディは尊い
ちなみに自分は、二人は付き合ってないけど肉体関係はある派です。

 

☆☆☆


④そして、これから。

コヨーテは、ズートピアにコヨーテが出なかったことに少しだけホッとして、
そして、ウサギが自分の元からいなくなったことに、1人泣いたのである。
結局、コヨーテは動物の物語から逃れることはできないのである。

 

☆☆☆


おしまい。
3000円としておこう。

おひさ

また放置してますけど、

アーロと少年

ズートピア

を見ました。

 

アーロと少年は、見た方は覚えてると思うけど、

少年と恐竜の友情物語……と見せかけて、恐竜が人間を飼うという

「ペットを育てること」がテーマの映画でした。

ズートピアは、かなり考えさせられたので、ちゃんと言葉にしたいです。

テッド2

ted-movie.jp

テッドは動物映画なのか?

みんな大好きテッドの続編。

テッドは動物映画なのか? みたいな話はあると思いますが、 

自分でもちょっと疑っていたところがあって、それで前作は見るのが遅れてしまったんだけど、最初の数分のオリジンが語られるところを見て、ああ、やっぱり動物の姿をしたものと人間が交流する映画は動物映画だよなあと。

そんなわけで2も見たんですが、前述の疑問はしっかりテッド2全体のテーマとして語られていたので驚きました。

「テッドとはどんな存在なのか?」がテーマの映画です。

 

テッド2のあらすじ

結婚して新婚ホヤホヤのテッドだが、互いに独身の延長線上の夫婦生活はあまり順調とはいかなかった。

満を持して子供を作ろうと模索するが、それもあたわず、テッドは養子を迎えることを決意する。

だが、審査は冷酷にもテッドが養子を取る資格がないこと……すなわち、人間ではないことを看破してしまい、テッドはアメリカ国民の権利を次々と剥奪されていく。

テッドは妻と旧友の協力を得て、裁判により公民権を獲得しようと画策する。

っていう話。

…しかし、ストーリーを解説すると逆に面白さが伝わらない希有な作品じゃのう。

 

人間と動物の境目

動物の話に限らずだけど、ファンタジー作品は、「なぜそうなっているのか」という聞き手の疑問なくしては成り立たない。

「丁寧に説明する」にせよ、「あえて答えない」にせよ、聞き手の顔をみながら、その疑問に対して何らかのリアクションをしなければならないのである。

人間世界に住む動物たちの物語は、たいてい冒頭で「なぜ、彼らは人間の世界で暮らしていけるのか」が語られる。

前作のテッドの冒頭、テッドが心を持つようになる一連の語りだってそうだ。

こないだみた、パディントンだってそうだ。

パディントンがどうやって人間の言葉を覚えたか、みんな知っているでしょう)

人間が、神話時代からずっと受け継いできた、世界に対する「興味そのもの」といっていい。

余談になるけど、近年、この「聞き手の疑問」とうまくつきあえないファンタジー作品が多いと感じている。

「ファンタジーだから、細かいところはどうでもいいじゃないか」という言い方をよく目にするし、語りに疑問を差し挟むことを「野暮」とたしなめる人を良く見る。

物語への疑問を許さない風潮なんて、物語の力をあまりにも見くびりすぎていると思うけど、どうでしょうか。

 

……「脱線したけれど、前作のテッドは、この聞き手の疑問点をはっきり認識しながらもあえて「答えない」方法でリアリティを表現していった。

そして、今回、テッド2は、その疑問……「なぜ、テッドは人間の世界で暮らしていけるのか?」に再び目を向けて、観客を巻き込んでいくのだ。

テッドがただのインモラルコメディ映画ではなく、ファンタジー作品としての矜持を持っていると思うのは、そういうところにある。

 

そして、この、「何をもって人間とするのか」を、裁判で決めようというのが実によくて、これはファンタジーでも何でもなくて、「公民権をもつ」ということが裁判で争われてきたアメリカでは当然の認識なんだろうなあと思います。

実は、この映画を見る前に「ビハインド・ザ・コーヴ」という動物映画を見たんですが、そこでも全く同じ議論(イルカは公民権を持てるか?)がなされていたという、意味のある偶然もあって、とても面白く感じました。

1960年ごろから過激に論じられてきた、「動物は権利を持つか?」というのは、日本人だと???みたいになりがちだけど、アメリカでは「当たり前の発想」なんだなあと、興味深く思うと同時に、苦しいなあと感じました。

 

とはいってもテッドはテッド

テッドが優れたファンタジー作品である、と大げさにいってみても、結局話の中心になるのはセックスとドラッグと21世紀のアメリカンカルチャーなのである。

(話の中心、というのは文字通り、ストーリーに直接的に絡んでくるという意味だ) 

 前作とちょっと違うのは、21世紀のカルチャーの描写で、今回はオタクの描写が多い―ー具体的にはコミコンが舞台になる。

コミコンがなんであるかというのは、まあマイリトルポニーを愛してやまない動物映画クラスタの諸兄ならご存知と思いますが、アメリカ最大のオタクのコンベンションだ。

そのオタクたちを巻き込んでのドタバタ劇が、今回のおもしろポイントの一つだ。

特に、マイリトルポニーのピンキーパイフィギュアで殴るシーンは普通に爆笑した。

でも、この場面かなり気になったところが、全体的にオタクを攻撃する絵面で笑いにしようとする意図がちょっと見え見えだったこと。

アメリカの例のヒエラルキーからいえば、そうなるのかもしれないというリアリティは理解できるけれど、ちょっと一億総オタク民族の日本人には苦しい内容だったかと思います。

ついでに、それを助長していた点として、ドラッグについては説教臭くならない絶妙なバランスで、その危険性みたいなことを強調していたのだけれど、オタクの扱いについては特にフォローもなかったというギャップもあったのも、ちょっともやもやポイントだったかなあと。

 

スコア

テッド2を劇場で見る価値があるかについては、

まず良質のファンタジー映画なので1800円。

マイリトルポニーがやたらうつるので+200円。

動物愛護問題のリアリティを感じることができたので+200円。

ドラッグが楽しそうに描かれていたので+100円の、

2300円としておこう。

 

やっぱり、動物の権利の問題を考えるときには、これは見ておいた方がいいと思います。

道徳的な作品ですねww