動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

ズートピア あるいは ずるいキツネ論

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いつものような、心の赴くままに動物映画を礼賛する感想を書くのが難しくて苦しんだので、今回は、飾り気のない素直な感じで書いてみたい。

僕が3回ズートピアを見てきた感想と思い込みの変遷を、わかるように書いたつもりだ。

もちろん、このブログのほとんどがそうであるように、ほとんどは未来の自分に向けて書かれている。

でも、こんなに動物の物語に一喜一憂する人達がいるということを、知ってくれる人がいたらそれはとても嬉しいし、ズートピアを見てほしいと思います。


☆☆☆

ズートピアを見た時、人生が忙しかったので、あまり言葉にはできなかったけど、

「ありそうでなさそうだけど、やっぱりありそうで、やっぱりなかったタイプの動物映画」

だと思ったという内容のメモが残されている。

それは、具体的には、2つの相容れない感情だったように思う。

 

1つは、「完全に新しい動物の物語」としてのズートピア

ズートピアによって、20世紀の動物の物語は全て滅ぼされたと思った。

 

もう1つは、「ルネッサンス」としてのズートピア

ズートピアは、全くの古典的な動物物語を、現代性をくわえて成功させた。

 

この2つの着地点の間で感想が揺れ動いて、全く答えのでなかった1ヶ月だった。

それから都合3回視聴して、最後には結局、同じ板挟みに戻ってきた感じはあって、その迷いこそがズートピアの素晴らしさなのかなあと思うに至った。

その話がしたい。

 

① 僕が最初に思っていた、ズートピア

ニック・ワイルドの存在こそが、このズートピアの全てだと思った。

それにはいくつか理由があるけど、無理やり一言でまとめると、

あまりにオールドスタイルかつ、ファンタスティックなキツネのキャラクターを、ズートピアの「歴史なき楽園」と、「古臭いキツネ観」との噛み合わなさに立脚させているから

ということにでもなるのだろうか。


それを、ひとつずつ説明させてほしい。


・歴史なき楽園の物語

まず、ズートピアは冒頭で、動物たちがついに築き上げた楽園という説明がなされる。

ここに既に、二つの動物物語の新しさがある。

一つは、『ポスト楽園世代の物語」

もう一つは、『語られないオリジン』だ

 

古来より、動物の物語は、「楽園」と「神話」こそが世界の中心だ。

動物たちは、彼らが「彼らであるための」神話を持ち、オリジンを持つ。

それによって、世界を理解している。

そして、彼らが彼らであるための世界ーー「楽園」を求めて、苦難の旅を続ける。

動物の多くの物語が、それを踏襲している。


でも、既に楽園は目の前に存在し、

さらに創世神話は、さもどうでもいいことのように切って捨てられるのが

ズートピアの新しさだ。


何があったのかはともかく、もう、動物たちは実際に「生きている」のである。

人間と同等の文化、技術を持ち、言葉をしゃべる。

なぜそうなったかは、誰も語らない。

過去や動物観にとらわれず、目の前の未来を目指して生きる。

そんなキャラクターとして、主人公のウサギ「ジュディ・ホップス」は描かれていた。

冒頭の5分、既にこの時点で、

僕はすごく自分が動物映画ファンとして時代遅れになっていることを痛感させられていた。


・ 古臭いキツネの物語

詐欺師 ニック・ワイルドはずるいキツネだ。

このキャラクターは、冗談じゃなくひと目で気に入った。

僕が……というか、多分、動物の物語が好きな人たちのほとんどが、

キツネという動物のキャラクターに求めているもののすべてを持っていたから。

しなやかさ、賢さ、捕食者としての強さと肉食獣としての弱さ……

ずるく賢いキツネは、狐物語、ルナール、ライネケ、

それらの神話的キツネ生物を下敷きにしたディズニーのロビン・フッド……

その、すべてのかっこよさをつめあわせたような、

まさに現代のトリックスターとしてのキツネのキャラクターがそこにいた。

なんというファンタスティック。

そんな感動と同時に、僕は、この鮮やかさに、すごく違和感を覚えていた。

 

僕たちは、確かに「ずるいキツネ」を求めていた。

でも、なんで、動物観や歴史を無視した世界で、

「ずるいキツネ」という古典的動物観だけを、残したのだろう?

この21世紀に、「キツネ=ずるい」なんて動物観を持ってる人が、一体どれだけいるんだろう?

さっきまで、お前の動物観は古いんだよ!って、あんなに殴ってきたのにさ!

という思いだ。

ニックは、立ち居ちとしても、メタな意味でもアウトサイダーなキャラクターだ。

 

本当にこのとき、僕は心臓がドキドキしていた。

「いったい、ズートピアはこのキャラクターをどうするつもりなんだろう?」って。

そんなことを気にしている間もなく、

いきなり彼はジュディに夢を持つことの厳しさ、ズートピアの現実を教える。

それは、彼自身が夢を持っていることの表現ではあるのだけど、

やはりそのシーンで強烈に印象に残ったのは、
ズートピアで夢をつかめなかったものは、なんで古い動物観から抜け出せないんだろう?」
という違和感だった。


結局、そのずるいキツネへの違和感は、最初の視聴では消えることがなかった。

なので、僕はニックとズートピアの関係を無理やり次のように整理した。

ズートピアはキツネのトリックスターという古いキャラクターを描くための舞台装置にすぎない」

「僕がこんなにもこのずるいキツネを愛するように、監督も、ずるいキツネがたまらなく好きだったんだろう」

それが、ニックが主人公であると考えた理由である。

 

ただ、理由は、それだけじゃなくて、

自分がこれまでに見てきた動物映画と、ディズニー映画の歴史というものも、

この考えを強く支持していた。

 

・動物映画としてのズートピア

正直に書けば、ズートピアが動物の表現の映画として

すごく新しいことって、そんなにはなかったと思っている。

動物たちが暮らす街。

動物たちの、それぞれの生態にあわせた暮らし。

その生態に合わせた文化。

その、生態にあわせた言葉遊び。

今まで、すべての動物映画がやってきたことだ。

動物を使って人間社会の問題を描き出す。

これだって、少なくない動物映画がやってきたことだ。

ガゼルのような動物界のトップディーヴァですらそうだ。

本能を描かない動物映画も、少ない。

そういう政治性や動物表現がズートピアの新しさでは、僕はないと思っている。

(僕だけじゃなくて、動物映画ファンはそう思うんじゃないだろうか)

 

そして、そんな動物の動物らしさの表現は、

ジュディがズートピアに来たあたりまでは強調されていたけれど、

ニックとジュディの二人の物語になる中盤からはパタッと鳴りを潜める。

この、「あえて頑張らない感じ」みたいなのも、

僕がズートピアそのものが、ニックのためにあると判断した理由だ。

ただ、動物映画として決定的にエポックメイキングだったのは、

ウサギとキツネの異種間ラブストーリー。

これは、本当に、今までどんな動物映画もやらなかった。

しかも、誰もが認める圧倒的な完成度と説得力で、それを表現した。

だから僕は、ズートピアはニックのための物語だと思った、ということだ。


・ディズニーのプリンセス映画の系譜

別にディズニーのことを語るブログではないので、

あくまで最小限に留めるけど、

僕が見てきたディズニープリンセス映画の歴史は、

物語的女性像から人間としての強さを加えながら、

何度も生まれ変わってきた50年といえると思う。

 

1人で考える人間、1人で解決する人間、時には相手を殴る強さをもてる人間……

特に21世紀のプリンセス観の成長は激しい。

ラプンツェルこそが、3週目にして最強のディズニープリンセスだと僕が思っているのはそういうことなんだけど。

そんなプリンセスの激化とともに、「ヒロイン」に格落ちした感のある「王子様」たちは、どんどん相対的にキャラクター性を失っていった。

アナと雪の女王を思い出しますね)

だから、というのは変だけど、

この辺のキャラクター性の差に対する考えから、

自分の中でジュディは、残念ながら物語をすすめる「主人公」以上のキャラクターと感じてはいなかった。

だってニックが複雑すぎたから。

そんなわけで、僕はニックこそズートピアが描きたかった全てだと信じきっていた。

 

その調子で、クライマックスのシーンの話をさせてもらうと、

本来、ニックの視点によって語られるべきだと思っていた。

それは、動物映画が描いてきたもう一つの側面、

「野生本能の表現」ということや、その亜種である「ワーウルフもの」を下敷きにしたシーンだと考えたからだ。

(俺が怖いか、というシーンは、その象徴だと思う)

でも、それをニックの視点から描くと、「ニックの個人的な内面の物語」になってしまい、ジュディの視点が導いた「ズートピアが描く多様性社会」という良さが消えてしまう。

そういう、極めてロジカルな判断により、

ニックの内面を描く物語は、姿を消したと僕は考えた。

そして、その瞬間に、日本人が得意とするウェットな動物物語が、

「一命を取り留めた」と思ったのだった。

劇場で1人、ひどく安心したのを覚えている。


そんなこんなで、

今までありそうでなかった古典的動物キャラクターの斬新な関係性を強調した、

「理由を求めない時代の最強の動物物語」として、

僕はズートピアを視聴した。

 

だって、しょうがないじゃん。

キツネとウサギがラブラブなんてさ。

だれだってそう思うと思うよ。

 

☆☆☆


②僕が完全に見逃していたもの

実は、僕は3回この作品を見ても、見逃していた要素があった。

そのことがショックだったから、感想がまとまらなかったんだけど、

そんなカッコ悪さを、正直に書けばいいと思ったから、こうして話ができている。

その、見逃していたものとは、「博物館」だ。

物語の象徴的な舞台となる「博物館」の、

その展示にズートピアの歴史が表現されているという指摘を読んで、

言い尽くせない衝撃をうけた。

 

衝撃は3つ。

1つ目は、ズートピアの歴史は意図的に無視されていると思っていたけれど、作中でしっかり語られていたこと。

2つ目は、それによって、今まで「強引に作り上げられた」と考えていた、
ニックというキャラクターが、ロジカルな存在だったという驚き。

3つめは、「これ以上は語られないだろう」と、達観した気持ちでいた自分の気持ちへの残念さだ。


博物館の展示は、

その歴史上の重要人物であるはずのゾウの王様みたいなやつを筆頭に、

肉食獣と草食獣の闘いの歴史について描いている。

草食獣たちが武器を持って、凶暴な肉食獣に立ち向かう様子が描かれているのだ。

それを、「ズートピアの歴史が誰によって語られていたか」という視点で看破した人がいた。
完全にその通りだと思った。

すなわち、ズートピアの歴史は、草食獣によって語られていた。

とするとだ。

僕がずっと感じていた、歴史なき時代の古臭い価値観という違和感……

つまり、ずるいキツネ像そのものは、草食獣によって語り継がれてきたイメージだったのだ。

自分はいつの間にか、肉食獣のものの見方になって、

「このズートピアで言われもない差別なんて」という気持ちになっていたのだ。

ズートピアで何者にもなれず、ずるいキツネ像に縛られて生きるニックとは、

そんな歴史によって裏打ちされたキャラクターであった。

 

だから、すべての構成はそのためにあった。

動物物語の伝統を裏切り、歴史を切り捨てたように見せたのも、そのためのトリックだ。

そこに、まんまと騙されてしまった。

トリックは、動物物語という芸術を象徴する最大の武器の1つだ。

そして、トリックはキツネの武器の1つだ。

そんな伝説の武器をしっかり振り回してまで、ずるいキツネを描きたかった、

そして彼を幸せにしてあげたかったという、

キツネによる、21世紀のキツネたちのための物語。

このズートピアはそんな作品だったということだ。


おめでとう、21世紀の世界はキツネのものだ。

そりゃ、ウサギの嫁さんだってもらいますよ。

お手上げです。

これが、ズートピアの僕の最後の感想でいいと思う。

 

☆☆☆ 

 

③そして、今。

ニックとジュディは尊い。
ちなみに自分は、二人は付き合ってないけど肉体関係はある派です。

 

☆☆☆


④そして、これから。

コヨーテは、ズートピアにコヨーテが出なかったことに少しだけホッとして、
そして、ウサギが自分の元からいなくなったことに、1人泣いたのである。
結局、コヨーテは動物の物語から逃れることはできないのである。

 

☆☆☆


おしまい。
3000円としておこう。