動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

ブレカナ探訪 第二回

ここからは、歴史に埋もれた言葉たちだ。
読むも読まぬもあなたの考え次第だ。
だが、あなたはなぜこれらが歴史に埋もれ、語られなかったかを想うかもしれない。
しかし答えは簡単である。


間違った言葉は消え、正しき言葉だけが残るからである。


エピックプレイにおいて、
なぜ歴史家(あるいは詩人)の視点でキャラクターを表現するのかということが、
気にかかっていた。
その疑問を口にした時、ある人がそっと教えてくれた。
エピックプレイとは、「キャラクターの同一性に対する疑問の発露であり、変化の表現である」と。
疑問は氷解した。
ブレイド・オブ・アルカナは、変化を表現できなかったのだ。


それでも、『なぜRPGにおいて変化の表現が必要なのか?』ということを理解するまでには、少しの時間を要した。
僕にRPGを教えてくれた人たちは、
RPGのキャラクターとは変化するものであり、成長するものである』と教えてくれたからだ。
キャラクターの成長、変化は当たり前のものだった。
(成長という言葉の意味は、RPGゲーマーなら多少の広がりを読み取っていただけると信じている)
しばらくゲームからはなれていても、キャラクターシートを見れば、
そのキャラクターの移り変わりを感じ取ることができた。
セッションを重ねたキャラクターは、データによって示されることよりも
何倍もの物語を滲み出させる。
僕のローズトゥロードのキャラクターシートに書かれている無数の『ガラクタ』は、そんな変化の道しるべたちだ。
(僕のキャラを育ててくれたGMのみなさんに千もの感謝を! またこのキャラでゲームしたいです!)


ブレカナというRPGは、アルカナを組み合わせてキャラクターを表現する。
そして、それがキャラクターの歩んできた、あるいは来るべき過去・現在・未来の暗示となる。
今のキャラクターのあり方を、はっきりと示すことが可能なその表現は、
揺らいではいけないものだったのかもしれない。
セッションを通じて、変化したと思っていても、アルカナはなお、運命を固持していたとしたら。
だからこそ、この3番目のブレカナは、
エピックプレイという英雄『叙事詩』において、
アルカナの変化を自由に認め、キャラクターを『揺らがせる』ことを決意したのだろう。
それが、キャラクターを物語の登場人物としてとらえ、さまざまな『能力的側面』を認めるという
エピックプレイの考えかたに繋がっているのだろう。
それは、つまり、自らに与えられた能力の客観的な把握が、世界観的に(というかゲームシステム的に)許されたということだ。
プレイヤーが、データとにらめっこしながら、何か特定の力を発揮するのに最も有利な組み合わせをキャラクターのために考え抜くのも、
それは当たり前のことなのだ。
なぜなら、物語(あるいは歴史家)はそのキャラクターに、その『特定の力』を発揮することを明らかに求めているのだから。
これは、ブレイド・オブ・アルカナの正統な進化だ。
同一性の表現に優れ、変化を表現できなかったブレカナは、その同一性の表現手法を拡張することで、変化を表現できるようになったのだ。
だが、それは本当に変化の表現なのだろうか?

気づきかけていることがある。
『FEARゲーはある』ということだ。
FEARゲーというまとめ方で、個々のゲームの個性を黙殺してしまうのは愚かである、
という言い方は正しい。
それでも、
『FEARゲー』は、本当にあるような気がするんだ。