動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

W:tFを考える第二回 「この化け物!」

Werewolf The Forsaken Rulebook: A Storytelling Game of Savage Fury

Werewolf The Forsaken Rulebook: A Storytelling Game of Savage Fury

Werewolf:the Forsakenについて、考えている。
最近になって、少しづつつかめてきたところがあるので、あまり溜めこまず
少しづつメモしていこうと思う。
基本的には、不定期に何か思いついたときに、言葉足らずな程度にまとめていくというスタイルで気楽にやりたい。


ただ、あくまでこのW:tF考は個人的な考え方であることを断っておこうと思う。
本当はこういった但し書きは、好きではないどころか、はっきりと嫌いなのだけど、
ここで個人的な意見を書く事によって、
W:tFというゲームにとどめをさしてしまうような結果になっては、僕はとても悲しいから、
今回は、個人的な考え方であることをはっきりさせることにした。
つまるところ
僕はW:tFのことを知らないし
たぶんにW:tFを勘違いしているのだから
みなさんは、このアイディアのメモを読んで、W:tFというゲームにガッカリしたり憤ったりするようなことがあったとしても、
それは、僕が間違っているのであって、本当はW:tFは面白いゲームなんだということを
信じていただきたいと、そういうことなのです。


第二回のテーマとして考えたのは、ウラサは人間か?ということである。

第一回も同じテーマだったような気がするが、気にしないことにする。
そしておそらくは、次の回も、その次の回も、同じテーマについて考えていくことだろう。
W:tFワーウルフの物語なのだから、このテーマを考えつづけるというのは宿命のようなもので、
考えることをやめたとき、彼らはただの人間とは違うものとしての怪物になってしまうのだろう。
(そして、W:tFとは、もしかしたらそういうゲームなのかもしれない)


ウラサと人間の関係として、はっきりといえることは二つある。

  • 彼らは、ワーウルフとして覚醒するまでは人間の生活をしていた

ワールド・オブ・ダークネスでは、最初に人間のキャラクターを作ってから、怪物のキャラクターメイクを始めるルールになっている)

  • 彼らはシステム的に人間のMorality(日本語版では道徳)から解放されている

つまり、システムから考えると、ウラサはただの人間として生活していたが、
現在では人間の道徳観を差し置いてでもHarmony(:物質性と霊性の調和)を気にかけているということである。
W:tFのスタートラインは、プレイヤーがこのウラサとしての最初の設定に、
キャラクター個人としての折り合いをつけるところから始まる。


しかし、ウラサと人間の感性にラインを引いていくことはなかなかに難しいことで、
W:tFというゲームの敷居が高いとすれば、このスタート地点での肉付けの難しさによるものだろう。
特にこの難易度という部分については、
他のゲームと違い、プレイ中にキャラクターを肉付けしていくということが若干難しい(ウラサセンスとも呼ぶべきものが必要)ことや、
キャラクターメイキングの責任の比重がプレイヤーに著しく傾いていて、
GMは設定についてアドバイスしにくい(自由度、寛容性が非常に高い)
というゲームの特性も、敷居の高さを感じさせてしまう要因として考えられるだろう。


この、ウラサと人間、キャラクターの三者の折り合いで悩みすぎると、結局キャラクターを作れず、ゲームを始められないという結果に陥ってしまう。
そこで、一つの解決方法として、『人間社会を無視する』という方法について考えてみた。
ウラサが人間であることを無視するのだ。
もちろん、言葉通りの単純な無視ではない。
『さも、人間社会がないかのように振舞う』というのが、実は意外な近道なのかもしれない。
半端な人間性など窺わせず、ウラサという種族として生きてみる。
そのとき、もしかしたら彼らにも人間としての生活があったのじゃないかと、改めて気づくこともあるのかもしれない。
それこそ、ナルニアの映画で血の流れない戦場を見た時の感慨のような。


W:tFが発売されてから一年がすぎて、ようやくこの程度のことを考えている自分に若干の苛立ちを覚えながら第二回を終える。