動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

参考資料

僕の中で参考資料という言い方がなくなったのは、いつからだろうと考えていた。
サークルでRPGのやり方を学んでいたときは、『○○(ゲーム名)の参考資料』という言い方があふれていて、
それを参照すること、そしてゲームに望む事がすごく楽しかったし、刺激的だった。
それが今は、参考資料という言い方にきな臭さすら感じるようになった。
参考資料が信じられなくなっている。


参考資料というものがなくなって、ただの『元ネタ』探しになってしまったのだろうか、
はたまた、『RPGは人それぞれ』(僕が好きな言葉だ)という教義に、根っこがあるのだろうか。
多分それは間違っていて、
よく考えてみると、それは自分の問題なのだと気がついた。


参考資料に自信がなくなっているのは、僕自身なのだ。
僕もRPGゲーマーだから、作品と特定のRPGの同調性を見出すことも少なくない。
多くは、表層だけの同調性だが、時に、同じテーマ、同じ風が流れていることを発見することもある。
そうした、あまりにも奇異な(それでいてストレートな)同調性を、
説明できない。
説明することを半ば恐れていたのだろう。
そうした恐れに、
『再現性』とか、『人それぞれ』とかいった呪いがさらに負荷をかけて、
いつしか、これは参考になる、とは言わなくなった。

それは、あなただけがそう思うのだ。
それは、あなたがRPGで再現したいことだ。
そう結論付けられることが嫌だった。


僕の好きなゲームと、僕の好きな作品があまりにも近すぎることも、そこに負荷をかけている。
特に、ワーウルフ:ザ・フォーセイクンは。


最近、ある人とワーウルフ:ザ・フォーセイクンの話をした。
今まで、正直にいえば、僕はWtFを理解しつつあるという直感はあったが、自信がなかった。
でも、今回話をしてみて、WtFを追いかけたとき、たどり着く風景は同じなのだなと思えた。
RPGのルールを読む限り、ルールが言葉で記述されている限り、
人それぞれと言ってしまえるほどRPGは自由ではなくて、その世界に共通の風景は、確実に存在する。
だとすれば、他の作品にも、同じ風景を見出してしまったとすれば、
それはやはり参考資料と呼ぶべきなのだろうと。
そこに、自信を持ってもいいのだろうと。


気が向いたら、参考資料を紹介したいなと思います。