動物の物語とファンタジー
いろんなコンテンツの周囲で「○○警察」という言葉が言われて、
また廃れていったように思う。
「廃れていった」かどうかは特に根拠なんてないけど、
その「警察構造」自体をもう誰も指摘しなくなったような気がする。
もちろんそれが「粋ではない」というところに落ち着けようとする大人たちがいるのだろうと思うけど、コヨーテとしてはそう思っていない、という話を時折したくなるので、覚えているうちに書き残してみている。
僕の敬愛する作家が、動物ファンタジーの正体を「イリュージョン」であると表現したけれど、ファンタジーのほとんどがそうだと思っている、という話で。
その意味で、イリュージョンが解けてしまうような瞬間がファンタジーに存在してしまうことは、危うい気がしている。
それと同時に、現代のファンタジー(現代ファンタジーという意味ではなく)が実に巧みだと思うところは、このイリュージョンと現実の狭間の表現が進化にほかならないと思っている。
だから、ただ現実を突きつけられるだけで行き来できなくなってしまうことを、読み手のせいにし続けることって、いうほど「粋」なのかなというのが正直な気持ちだ。
何でコヨーテがこの話にこだわるかというと、歴史上、動物の物語は「動物がしゃべるわけないじゃない」なんて言われても「それを指摘する読者が悪い」なんて言ったためしが無いからである。
何かが潜んでいるカーテンを開けるか開けないかを考えているとき、地球の時間と人間の時間が入り交じる夜明けを迎えるとき、僕たちは「何かを信じてみよう」という気持ちを「選択できる」。
このことが物語を味わうことの自らの操作なのだと思う。
考えてからものを書くということにエネルギーがいる感じになってきて久しいので、
「よいしょ」という気持ちで気のおもむくままに書いてみた。