動物映画D20

動物映画をたんたんと見続けるコヨーテなのでした。 

コヨーテ生活01

世界のアイデアはだいたい出尽くしていて、

今あるものは組み合わせでしかない、だから「目新しさ」という考えは愚かだ

というのは半分は賛成なんだけど。

でも、もう半分は「新しいものばっかりだよ」という気持ちがある。

デファクト・スタンダードというか、

「その固有名詞をもって、なにかを言い表せてしまう代表格になってしまう」というのは、

それは新しい表現であると言って良いと思っている。

でも、動物映画で考えると僕がターニングポイントだと感じた作品の名前を使って

ズートピアみたいなやつ」とか「ビースターズみたいなやつ」みたいな言い方の評価があまり言われてるのを聞いたことがないから、

あの辺は正統派なんだなあという気持ちがしている。

竜とカワウソの姫

映画_竜とそばかすの姫

 

その1: 最初の物語

竜とそばかすの姫を見た。

でも、その話をする前に、一つだけ、別の物語の話をさせてもらいたい。

そう、一つだけ……別の話を……。

いや、やっぱりいくつか、話すことになると思う。

 

まず、『ガンバとカワウソの冒険』というお話だ。

東京に住むドブネズミのガンバは、冒険に出た八丈島で、

ネズミの仲間たちとともに捕食動物である白イタチのノロイをうち倒す偉業を成し遂げた。

そして月日が経って、またちょっとした冒険に出たくなったネズミたちは、

次に訪れた『四の島』にて、絶滅種であるはずの「ニホンカワウソ」に出会ってしまう。

「仲間に会いたい」と願う彼らを前にしたガンバは、

そんなカワウソたちに、

きっと会えるよ」などと軽はずみな約束をすることも、

「出会わなければよかった」と賢明に見捨てることすらできずに、

半ばヤケクソのように、四の島の「豊かな流れ」を探す旅を始める。

希望を捨ててはいけないと、繰り返し自分の心に言い聞かせながら……

この本を僕は心から愛していて、

日本の動物ファンタジーの最高傑作だとすら思っているのだけど、

忘れがたい理由は、「あなたは本当に彼らを助けられるのか?」という問いに、特別な力も持たないちっぽけなネズミのガンバが、正面から答えを出さなければならない物語だからだ。

この問いこそが、今まで自分を生き延びさせて来たのだと思っている。

 

その2: そして、二番目の物語。

動物の物語にそんな思い入れがあるからこそ、

この「ガンバとカワウソの冒険」の存在が、細田守作品の

おおかみこどもの雨と雪」については、

それが僕の愛する「オオカミの物語」でありながらも、文字通り、愛憎入り交じった感情を抱いた直接の原因になってしまったという話をしたい。

 

具体的に言うと、「おおかみこどもの雨と雪」の中では、

「あなたは本当にそれでニホンオオカミを救えるのか?」という問いに、

最後まで、作品は答えることはなかったと思えた。

オオカミを『絶滅種』として描きながらその答えを出さないのは、僕にとっては動物ファンタジーをコンテンツとして消費しているかのように見えた。

オオカミが、そのようないかなる信仰も消費も可能な稀有な動物存在だと信じるからだ。

しかも、わざわざ、父親をニホンオオカミと名乗らせたからには……。

 

……こういったいわゆる定点的で信仰的な感想は、当時はあまり誰にも言えなかったけれど、感想の多様性が見られる今なら、言える時代になったと感じている。

(でも、幼かった自分はこの憎しみを細田作品を愛する友人にぶつけてしまい、

ケンカになってしまった。今でも申し訳なく思っている)

 

そういった複雑な思いから、僕は細田守作品を、憧れと恐怖を感じながら、体験するようになった。

一つは、『自分の愛した風景を見せてくれる』作品として。

もう一つは、『自分が大事にしていたものに無造作に触れてしまう』作品として。

結果、それぞれの作品を見返すことは愚か、新作の「未来のミライ」は劇場に行くことすらできないまま、2021年を迎えた。

 

その3: 竜とそばかすの姫と物語の魔法

そして、ようやく竜とそばかすの姫を見た話になるんだけど。

 

「U」は、世界で最も人気のあるSNSである。

Uの中では、人間の本質を具現化するようなアバターを介して、バーチャルな社会の中でコミュニケーションをとる事ができる。

友人の紹介からUに登録することになった高校生の「すず」は、そのUの世界で「歌姫ベル」として稀代の人気を博すことになる。

それは、Uが発現した彼女の本質である「歌の才能」そのものだったが、すずは歌うことに対するコンプレックスを拭い去ることができず、日常とUの間で揺れ動いていく。

ある日、Uの中で彼女は「竜」に出会い、その秘密めいた素性に惹かれていく……

 

というのがあらすじというか、「竜とそばかすの姫」で描かれていたことだ。

……そうではあるけども、自分でも書いていて、「たしかにそういう話だったけど、本質ではないよなあ」という疑問が湧いてくる、いわゆるあらすじの書きにくいタイプの映画だなあとも思う。

 

全体的には、現実とUを行き来しながら、

高校生である「すずとしのぶくん」

Uの中の歌姫「ベルと竜」

の関係性を描いていき、そこに3本目の軸である「竜とはどんな存在なのか?」が語られていく。

この、それぞれの軸の表現が異常に巧みな作品であったというのは、間違いなく言い切れる。

今までの作品のように、非常にエモーショナルに理解できる一方で、どこか危なっかしいというか、ビールケースの上に乗りながら素晴らしい芸をしている人が、いつ破綻してしまうのかみたいなドキドキ感がある感じはなくて、どのシーンも「ずっと見ていたい」と思えるような、徹底した緊張感のある物語になっていた。

圧倒的な力でUの世界に君臨しながらも、そのUからははじき出されてとてもか弱く、傷ついている用に見える竜。

僕は、見る前のその不安感をすっかりどこかにどけてしまって、そんな竜をベルがどう変えていって、どう助けていくのか、物語の先を心待ちにしながら、ずっと画面を見つめていた。

まさに、物語の魔法にかけられていたかのような素敵な没入体験だった……

 

……なのだけど、自分にかかっていた物語の魔法は、自分にも意外な形で解けてしまうことになる。

 

その4: 魔法の終焉と叫ぶカワウソ

物語も残すところあと僅かというところになったときだ。

僕はようやくこの物語の舞台が「高知」であることに気づいてしまった。

(友人に聞くと、かなり最初から舞台が高知県であることは語られていたらしいのだけど、僕はこういうところを容易に見逃すくせがあるので、普通に気づかなかった)

それに気づいたとき、残りの10分は理性の体験になってしまった。

 

なぜそこにこだわったかという話なんだけど。

細田守作品が愛される理由の一つに、細かい描写の情報量みたいな部分があると思っていて。

例えば、おおかみこどもの雨と雪の本棚には「オオカミと生きる」とかが置いてあって、それはオオカミが好きな人は(大げさじゃなく)必ず持ってる本だから、そういう描写を通して、人物の人生や覚悟を語っているのだ、というところが評価されている。

 

今回の竜とそばかすの姫。

冒頭、すずの本棚にあったのは「ガンバとカワウソの冒険」だったのだ。

僕はそれで、すっかり魔法にかかってしまった。

今から僕たちは「誰かを助けるということ」を物語として描いていくのだ、という決意表明なのだと。

つまりそれは、「おおかみこどもの雨と雪」で語られた「オオカミと人間の子供をどうやって守るのか?」という問いの、やり直しをすると、そう言っているのだと。

僕はそのたった一つのシーンで「よしわかった」と、すっかりそういう気持ちになってしまっていて、ものすごくポジティブに2時間作品を見続けていた。

映画館の暗闇の中、頭の中で、ずっと、カワウソのカワモが叫んでいる。

……ネズミっていうのは、すぐ旅とか冒険とか、愛なんて言葉だって使いたがる。

言葉なんて消え失せろ! わたしの前から消えてしまえ!

 

……と。

だから、少し前で言ったように、物語の完成度が高いというのは取り消さないまでも、「自分の都合のいいように作品を見続けていた結果だった」というバフ効果は否定しない。

つまり、僕はその間、「ベルは本当に竜を助けられるのか?」という問いの答えを心待ちにしていた。

 

でも、舞台は高知だった。

ガンバとカワウソの冒険高知県の取材からの物語だ。

単純に、そういうリンクに過ぎないのかもしれない、と。

そこには山間を縫う清らかな流れに憩う者たちの風景があるだけで、自分だけがまた動物の物語の記憶をつなぎ合わせているだけなのだ、と。

そしてその思いが、また誰かを傷つけてしまうかもしれない、と。

ふとそう思ってしまった。

 

そこで、僕の竜とそばかすの姫の鑑賞は一区切りついた。

細田守作品で一番好きな作品だと胸を張って言える。

たとえ勘違いだとしても、ガンバとカワウソの冒険のことを思い出させてくれて、本当に素晴らしい映画体験になった。

ありがとう。

 

……なんだけど、そうして冷静になってみて初めて、僕はあえて見ないふりをしていた「危うい部分」が気になり始めてしまったのだ。

 

その5: なぜ人と竜は恋に落ちるか

竜とそばかすの姫を思い返してみて、「語りつくされていない」と思った部分。

それは、「なぜベルは竜のことを好きになったのか」ということだ。

あるいは、すずは「竜としのぶくんどっちが好きなんだ」問題なんだけど。

もちろん、これは動物映画のファンとして「ベルは竜のことが好きであってほしい」という願いから来ている問いだ。

(ようやく、動物映画レビューっぽくなりましたね)

 

作中では、すずとしのぶくんとの関係をめちゃくちゃ丁寧に書く一方で、竜とベルの関係は、あまり感情のインタラクションがあるようには見えず、淡々と謎を解き明かす物語が進んでいる、という風に感じる時間が多かったと思っている。

じゃあ、好きじゃないのかというと、すずも竜が好きだったと思う。

 

その前提で、しのぶくんと竜でかけてる時間と好きの度合いの比率が逆転していることが、終わってみるとすごく気がかりになってしまった。

(鑑賞中、そこを気にしなかったのは、そのギャップが救済と愛の違いという物語として消化されると信じきっていたカワウソバフ効果による)

 

それに比べると、ディズニー版の美女と野獣は、野獣とベルの間の関係に不自然にならないくらいの時間をかけていた。

というのは、この物語がディズニーの1992版美女と野獣を強くリスペクトしていることは各種情報の通りであるし、本作のその付かず離れずの表現も、ディズニーファンとしての自分を魔法にかけていた要因の一つだった。

そこで、改めてディズニープラスで見直してみて、若干尺がたりないとは感じながらも、野獣とベルの急速な心の交流は、呪いを解くための部下と野獣の協力体制、そしてベルの不思議を愛する気持ちで十分に腹落ちできる構成だし、二人がしっかり恋に落ちるからこそ、野獣が最後人間に戻ってしまうことで、ケモナーでない視聴者さえもがっかりさせるのである。(ネタバレ)

 

その心の移り変わりという点で、竜とそばかすの姫で整理すると、そのギャップを正当化するには、

「ベルは竜をひと目見ただけで好きになった」

としか言えない。

だから、気がかりになってしまうのだけど。

そんなはずはないだろう、ケモナーじゃあるまいし、となる。

 

その6: 信仰としての美女と野獣

……と、本当になるのだろうか?

美女と野獣だって、ベルは、人間としての野獣を見たのはラストの1分だけだ。

あれこそ、かけた時間と愛が反比例している現象なのではないか?

そう考えると、ベルは別に人間の王子だから愛に答えたのではなくて、

むしろ、ベルは本当に野獣を好きだったからこそ、姿が変わった王子を愛せたのではないのか?

その「姿」ではなく大事なのは「本質」であることの結実だとしたら……?

 

そこまで考えて、僕はようやく竜とそばかすの姫が描いていたもう一つのことに気づく。

ベルが異種族を愛さないと決めつけて、丁寧な恋愛描写をもとめているのは、自分自身なのではないか……?

すずは単に竜を愛したからこそ、「その本質」を救いたいと、そういう物語であったとしたら。

 

美女と野獣で、野獣が人間に戻ってほしかったかどうか論争というのは、今でも連綿と受け継がれるディズニーファンのスティグマだ。

だけど、最初から、そういう話ではなくて、ベルは本質的に真のケモナーだからこそ、相手の外見が人間でも全然いいんですよ、という理解をしている人が存在していたのかもしれない。

そしてコヨーテは、だからこそ、そういう人が作ったのが、竜とそばかすの姫であったと、そういう幻想であったと思いながら生きることに決めた。

 

竜とそばかすの姫は動物を描かない動物映画であったということだ。

 

付録: 自分が過去に書いた、おおかみこどもの雨と雪のレビュー

怪文書には歴史がつきもの

animalsaga.hatenablog.jp

動物の物語とファンタジー

いろんなコンテンツの周囲で「○○警察」という言葉が言われて、

また廃れていったように思う。

「廃れていった」かどうかは特に根拠なんてないけど、

その「警察構造」自体をもう誰も指摘しなくなったような気がする。

 

もちろんそれが「粋ではない」というところに落ち着けようとする大人たちがいるのだろうと思うけど、コヨーテとしてはそう思っていない、という話を時折したくなるので、覚えているうちに書き残してみている。

 

僕の敬愛する作家が、動物ファンタジーの正体を「イリュージョン」であると表現したけれど、ファンタジーのほとんどがそうだと思っている、という話で。

その意味で、イリュージョンが解けてしまうような瞬間がファンタジーに存在してしまうことは、危うい気がしている。

それと同時に、現代のファンタジー(現代ファンタジーという意味ではなく)が実に巧みだと思うところは、このイリュージョンと現実の狭間の表現が進化にほかならないと思っている。

だから、ただ現実を突きつけられるだけで行き来できなくなってしまうことを、読み手のせいにし続けることって、いうほど「粋」なのかなというのが正直な気持ちだ。

何でコヨーテがこの話にこだわるかというと、歴史上、動物の物語は「動物がしゃべるわけないじゃない」なんて言われても「それを指摘する読者が悪い」なんて言ったためしが無いからである。

 

何かが潜んでいるカーテンを開けるか開けないかを考えているとき、地球の時間と人間の時間が入り交じる夜明けを迎えるとき、僕たちは「何かを信じてみよう」という気持ちを「選択できる」。

このことが物語を味わうことの自らの操作なのだと思う。

 

 

考えてからものを書くということにエネルギーがいる感じになってきて久しいので、

「よいしょ」という気持ちで気のおもむくままに書いてみた。

ディズニーと動物という本が出るらしいよ

 どんな本かわからないけど、タイトルだけで読むべきなんだろうと思う。

動物の物語を追いかけてディズニーにたどり着いた自分としては。

(アフィリエイトじゃないのでご心配なく)

 

ディズニーと動物 ――王国の魔法をとく (筑摩選書)

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  • 作者:清水 知子
  • 発売日: 2021/02/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

あっという間に年末

毎年毎年、ブログに見た動物映画のメモを残しておきたいとか言いながら

三日坊主になっていたけれども、

今年は見返してみると案外がんばって書けていた。

そして、やっぱり読み返してみると、その時には頭の中でつながっていたことを

今ではすっきり忘れてしまっていて、

「そういえばそんな思いで見ていたなあ」などと他人事のように思えるので、

ちゃんと書き残しておいてよかったと思いました。

でも、荒野の呼び声じゃなかった野性の呼び声の感想を書いてない気がしました。

あれとウルフウォーカーが今年の動物映画の2強でしょう。

(パウパトロール見てないからもしかしたら一番面白いのかもしれないけど)

 

映画『ウルフウォーカー』あるいは人とオオカミの新しい形。


ウルフウォーカーを見てきた。

映画『ウルフウォーカー』オフィシャルサイト


作品に関して言えば、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(Amazonプライムで見られるよ)とか『ブレンダンとケルズの秘密』とかのケルティックファンタジーアニメーションを制作したトム・ムーア監督の新作だ。

 

 ちなみにソング・オブ・ザ・シーは劇場で見たけどブレンダンとケルズの秘密は見てない。(動物映画かどうか分からなかったので……)

 僕はコヨーテなので、ご多分に漏れずオオカミの物語が大好物なのだけど、オオカミの物語に対してはいつも大体言いたいことがある。
 オオカミの物語は独善的にすぎるきらいがあるというか。
 オオカミは絶対に善き生き物で、強く、気高く、家族思いで……。
 そういう存在が画面に写っていればいい。
 誰もその存在を疑わない。

 うまく言葉に出来ないけど、「それはオオカミの物語だったのかなあ」みたいな感じを覚えてしまうことが多かったので、いつからかあまり期待をしなくなった。
 
 率直に言って、ウルフウォーカーもそういう期待感で見に行った。
 ポスターに出ている二人の少女の物語で、オオカミは美しくきらめく髪飾りにすぎないのではないかと考えていた。
 
 そして、これも毎度のことだけど、現代の動物映画は、だいたいそういう諦観というのを蹴散らしてくる。
 ウルフウォーカーの表現は、十分に僕のようなつまらない観客を蹴散らしたあと、はるか高みから見下ろすかのようだった。
 それくらい、ウルフウォーカーたちは圧倒的な「オオカミの物語」であり、それくらい素晴らしかった。

 

 

ウルフウォーカーあらすじ


 イングランドからやってきたロビンは新しい街に馴染むことができない。少女の夢は、父親のように森でオオカミを射るハンターになることだ。その日のために、「街の少女」して生きてほしい父親の願いと裏腹に、相棒のハヤブサ、マーリンとともに弓の修行に励む。
 ある日、ロビンは父親のいいつけを破って城壁の外にオオカミ狩りに出てしまう。
 森で不思議なオオカミに噛まれたロビンは、オオカミの子メーヴと意思疎通ができるようになり、彼女が「ウルフウォーカー」であることを知る。
 一方でロビンは、夜毎オオカミの夢を見るようになる……。

 というお話。

 

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ウルフウォーカーのパンフとチラシ

対立をしない物語とそのオオカミ像

 

 オオカミたちは、有史以来、戦ってきた。


 自然との戦いはいつしか人間との戦いになり、文明との戦いになり、街との戦いになり、最後には神との戦いになった。
 (神との戦いには、オオカミは敗れたと言っていいと思う。この整理をできるようになったのも、ウルフウォーカーを見たおかげだろう)
 

 オオカミの物語のほとんどは、彼らの戦いの物語だ。
 オオカミたちが強く気高いものとして存在を許されるのは、その戦いの一つの結果であった。

 だから、ウルフウォーカーのあらすじを見れば、オオカミの物語を見慣れた人なら、そのテーマは

 「街と森」

 「文明と自然」

 「人間とオオカミ」の対立だと感じるはずだ。
 ウルフウォーカーと意思疎通をする少女ロビンは人間とオオカミの橋渡し役になるだろうと。
 
 ほら、いつものオオカミの物語だろう、と。
 あとは、どちらが勝つか、だけじゃないか、と。 
 思ってしまうようなあなたたちこそ、現代社会に生きる「オオカミ」に違いない。
 そして、オオカミの皆さんにこそ、絶対にこの作品を見てほしい。

 

 だって、ウルフウォーカーたちは戦わなかったんだから。
 ウルフウォーカーははじめから、「オオカミたちが森から逃げること」を説いていた。
 オオカミを、人間との戦いを望まないものとして描くのだ。


 言われてみれば。
 この物語で、オオカミを狩ろうとしていたのは誰だったか?
 ーー 特定の人物の顔が思い浮かぶことだろう。
 だから、その答えは、いわゆる「人間たち」ではなかった。
 オオカミたちは、人間たちをどう考えていたか。
 ーー 羊を脅かし、あざけるように罠を外し、食べ物を盗む。
 彼らをことさらに憎んでいるという描写はない。

 「臭い街に住む生き物」としてしか考えていなかったのではないか。


 そもそも、ウルフウォーカーは物語の大半を何に使ったかを思い起こすと。
 オオカミの躍動、オオカミの表情、オオカミの歌声を描くことに多くの時間を使っていたことに気づく。
 明らかにステレオタイプのようなオオカミ像ーー気高く、強く、というものではない。
 柔らかく、朗らかで、活動的ではあるが、どこか儚い生き物として描かれていた。
 あまつさえ、オオカミがいかに『かわいらしい』生き物であるかをちょっと露骨に思えるくらい徹底的に描いた。

 (ツボを抑えたケモノアニメの表現を意図的に選択している!!) 


 そんな『愛すべき』オオカミたちだから、「人間たちとは争わない」と決めたとしても、彼らはきっとそうするだろうと思えるのだ。
 それは、これまでの戦いの物語の図式と、少し違っている。
 「オオカミには戦う理由がないのだ」
 「人とオオカミの生活圏の奪い合いなのだ」 
 といった理詰めの主張ではない。
 「私たちは、そういう生き物なのだ」という説明のみがなされているのです。 

 

 つまりこの作品は。
 オオカミたちによる、人間へのステートメントにすぎない。
 私たちはオオカミだ。
 私たちオオカミとは、どんな生き物だったのかの『再定義』。
 そして、私たちは争いを望んでいたわけではない。
 ということを2時間かけて主張していたのだ。
 
 オオカミと人間との争いに終止符をうつ、休戦協定。
 それを、オオカミを描写することによって説明する。
 それが、映画『ウルフウォーカー』の正体だ。
 
 オオカミによる、オオカミのためのオオカミの映画。
 この作品を見て劇場で泣いている観客がいるとすれば、それは間違いなくオオカミだ。
 その涙は、人間たちとオオカミが新しい未来を作っていけるという希望だろう。
 同時に、これまでその戦いに払ってきた多くの犠牲、多くの情熱への……。
 

そして、コヨーテたち


 「おめでとう、オオカミたち」
 コヨーテはオオカミたちのその高潔な和平宣言を見て、号泣し、そして、抜け駆けしやがって、と毒づくのであった。


 とにかく何が言いたいかというと、これまでのオオカミ映画で一番オオカミがかわいかった。
 3500円としよう。
 
 

少年と犬 L・Q・ジョーンズ

渋谷のTSUTAYAが、なんとVHSレンタルコーナー拡張ということで

ちょうど折りよくVHSデッキを押し入れから出して設置していたこともあり、

レンタルにいってみた。

その中で、多分これはかんたんには見られないだろうな〜と思う動物映画をチョイス。

 

少年と犬

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というわけで、少年と犬ということである。

VHSなのでテレビ直撮り。器用だろ?

 

どんな話

西暦2043年、何回かの世界大戦を繰り広げて完全に荒れ果ててしまった世界で、少年(青年に見えたが……)と言葉をしゃべる犬が孤独に旅をする。

なんかいわゆるマッドマックスみたいな世界なので、大事なのは食料の確保。

そしてその次は女 の略奪。

という方程式により出会った女は「地下」の住人なのだった。

女に連れられて青年は不思議な地下の国に住むが、そこではある不思議な風習が……。

みたいな話。

 

犬の話をしなかったけど、ブラッドさんという犬が出てくる。

ブラッドさんは非常に飄々としていて、あんまり物事にも動じない。

相棒の少年ヴィックが怒って怒鳴っていても、いつものことのように受け流す。

それが、彼自体の淡々として聡明な語り口によくあっている。

現代の動物映画の魔法であるところ「CG」のように、感情豊かに喋っているようにはみえないが、しかしその一挙手一投足は、たしかに「彼が喋っている」というより「会話をしている」ようにしか見えないのである。

口パクや表情で言葉を表現する動物の映画が大好きだが、この撮り方は非常に心象が強かった。

だから、ブラッドは一瞬たりとも「かわいい犬」ではなかったが、どこまでも人生をともに歩んでくれる「人間の希望としての犬」そのものだったし、それが孤独な荒野や暴虐な地下世界に映えていた。

 

実際はそんなに面白い感じではなかったが、それはこの作品が1975年の作品であり、僕はマッドマックスとか北斗の拳とかメタルマックスとかを知っているからなのだろう。

だけど、(その頃冷戦がどうだったとか、あんまりよくしらないけれど、)当時の人たちはきっと、たとえ今この瞬間に世界が終わったとしても、自分の隣に犬がいてくれさえすれば、案外楽しく生きていけると思ったに違いない。

 

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なんか自分の中であんまり盛り上がった映画ではなかったけど、

ちょっと感想でも書こうと思ったら以外と好きなところがたくさんあることに気づいた。

2300円としておこう。