人間のフリ2026
2026/01/27 23:01
ペットボトルの重さが、日によって違う理由
「できるはずのことが、できていない」
⋯⋯という事実は、静かに,だが確実に精神を蝕むものだけど。
その、できるはずというのは、べき論でありながら道徳や規範ではない、というところが人間を難しくしている、というお話。
つい先日、ペットボトルのゴミを捨てた。
コヨーテは収集癖があって片付けることが苦手なので、この場合のペットボトルを捨てたというのは、単に2週間分くらいのペットボトルを捨てた、とかそういう話ではない。飲みかけのまま放置しているペットボトル、中途半端にラベルをはいでデスクに乗っかっているペットボトル、足元に転がしてるペットボトル、今度捨てようと思ってまとめたまま捨ててないペットボトル⋯⋯
これらのペットボトルを、一人で抱えきれないくらいの袋にまとめて、ガラガラと引きずっていった。
そこで気づいたことが2つ。
ひとつは、ペットボトルは意外にもQOLを下げるという気付き。
足元に障害物がない。机の上が平らである。それだけで、急に生活が何かの基準で管理されているような気持ちになって、少し贅沢な気持ちがした。
でも、そしてもう一つ感じたのは、毒づきたくなるくらいの虚しさだった。
「なんで、自分の人生にペットボトルを捨てている『余裕』ができてしまっているんだろう?」
この疑問のほうが、自尊心をひどく傷つけたのだった。
掃除が得意な人にとって、床に転がる一本の空のペットボトルは、単なるゴミではない。それは自身の規律が崩壊したことの証であり、自尊心を削り取る鋭い刃だ。
コヨーテの規律は、そこではなく、物語にしかない。
創造という名の原罪
この妙なアンビバレンツにずっと悩まされてきている。
何かに没頭し、寝る間を惜しんでデスクに向かい続けているとしよう。
メチャクチャ大変だし、自分の限界や、計画性のなさと向かい合うのは凄くストレスだけれども、たとえその時、部屋にペットボトルが何本転がっていようが、そんなことは不思議と気にならないのだ。
戦い続けないといけないという緊張感が、物理的な乱れを視界から消し去ってしまう。いや、むしろ、悲惨な戦場の風景として、こんなに美しい景色はないとさえ思う。
この時、QOL(生活の質)の基準は、清潔さではなく「戦い」に置かれているからだ。
自尊心の防衛的掃除
だが、ひとたび表現が止まり、カレンダーに空白が目立つようになると、事態は一変する。
昨日まで風景の一部だったペットボトルが、突如として「お前は身の回りのことすら満足にできない人間だ」とコヨーテを嘲笑し始める。
怒りのあまり、ペットボトルを潰して袋に放り込む。
だが、それは清潔を愛しているからではない。
そいつらの嘲笑う顔を視界から消し、自分の単純な力で秩序を引き寄せ、崩れゆく自尊心を、目に見える「成果」で補填しようとする、必死の防衛本能なのだ。
それは決して野生動物の生き方を称えてくれるものではない。
ただの、文化の断崖絶壁でしかない。
基準を人に押し付けないために
この告白は一体何なのか?
実は、この話は自分自身への警告に過ぎない。
コヨーテは言う。
つまり、この「守るべき秩序」「自尊心の基準」は、人によって違うという、単純な理。
それを、物語や風景として消化してはいけないという、戒めだ。
秩序は同じ人間であっても、その時の健康や心理状態によっても劇的に変動しうるだろう。
その時、自分が「戦場」にいる時の基準で、人は散らかってる部屋が許せないのだろう、と考える想像力。
そして、自分が「防衛的掃除」に感じる絶望感と同じくらいの強度で、人も物語と接しているであろうという寂しさ。
他者から「だらしない」と断罪されることをあなたが欺瞞だと思うなら、物語が人の命を救うという秩序だって、また間違いでしょう、と。
そうであったとしても、コヨーテは秩序と混乱の真ん中を進んでいかなければならない宿命だとはいえ。