ウルフウォーカーを見てきた。
作品に関して言えば、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(Amazonプライムで見られるよ)とか『ブレンダンとケルズの秘密』とかのケルティックファンタジーアニメーションを制作したトム・ムーア監督の新作だ。
ちなみにソング・オブ・ザ・シーは劇場で見たけどブレンダンとケルズの秘密は見てない。(動物映画かどうか分からなかったので……)
僕はコヨーテなので、ご多分に漏れずオオカミの物語が大好物なのだけど、オオカミの物語に対してはいつも大体言いたいことがある。
オオカミの物語は独善的にすぎるきらいがあるというか。
オオカミは絶対に善き生き物で、強く、気高く、家族思いで……。
そういう存在が画面に写っていればいい。
誰もその存在を疑わない。
うまく言葉に出来ないけど、「それはオオカミの物語だったのかなあ」みたいな感じを覚えてしまうことが多かったので、いつからかあまり期待をしなくなった。
率直に言って、ウルフウォーカーもそういう期待感で見に行った。
ポスターに出ている二人の少女の物語で、オオカミは美しくきらめく髪飾りにすぎないのではないかと考えていた。
そして、これも毎度のことだけど、現代の動物映画は、だいたいそういう諦観というのを蹴散らしてくる。
ウルフウォーカーの表現は、十分に僕のようなつまらない観客を蹴散らしたあと、はるか高みから見下ろすかのようだった。
それくらい、ウルフウォーカーたちは圧倒的な「オオカミの物語」であり、それくらい素晴らしかった。
ウルフウォーカーあらすじ
イングランドからやってきたロビンは新しい街に馴染むことができない。少女の夢は、父親のように森でオオカミを射るハンターになることだ。その日のために、「街の少女」して生きてほしい父親の願いと裏腹に、相棒のハヤブサ、マーリンとともに弓の修行に励む。
ある日、ロビンは父親のいいつけを破って城壁の外にオオカミ狩りに出てしまう。
森で不思議なオオカミに噛まれたロビンは、オオカミの子メーヴと意思疎通ができるようになり、彼女が「ウルフウォーカー」であることを知る。
一方でロビンは、夜毎オオカミの夢を見るようになる……。
というお話。
対立をしない物語とそのオオカミ像
オオカミたちは、有史以来、戦ってきた。
自然との戦いはいつしか人間との戦いになり、文明との戦いになり、街との戦いになり、最後には神との戦いになった。
(神との戦いには、オオカミは敗れたと言っていいと思う。この整理をできるようになったのも、ウルフウォーカーを見たおかげだろう)
オオカミの物語のほとんどは、彼らの戦いの物語だ。
オオカミたちが強く気高いものとして存在を許されるのは、その戦いの一つの結果であった。
だから、ウルフウォーカーのあらすじを見れば、オオカミの物語を見慣れた人なら、そのテーマは
「街と森」
「文明と自然」
「人間とオオカミ」の対立だと感じるはずだ。
ウルフウォーカーと意思疎通をする少女ロビンは人間とオオカミの橋渡し役になるだろうと。
ほら、いつものオオカミの物語だろう、と。
あとは、どちらが勝つか、だけじゃないか、と。
思ってしまうようなあなたたちこそ、現代社会に生きる「オオカミ」に違いない。
そして、オオカミの皆さんにこそ、絶対にこの作品を見てほしい。
だって、ウルフウォーカーたちは戦わなかったんだから。
ウルフウォーカーははじめから、「オオカミたちが森から逃げること」を説いていた。
オオカミを、人間との戦いを望まないものとして描くのだ。
言われてみれば。
この物語で、オオカミを狩ろうとしていたのは誰だったか?
ーー 特定の人物の顔が思い浮かぶことだろう。
だから、その答えは、いわゆる「人間たち」ではなかった。
オオカミたちは、人間たちをどう考えていたか。
ーー 羊を脅かし、あざけるように罠を外し、食べ物を盗む。
彼らをことさらに憎んでいるという描写はない。
「臭い街に住む生き物」としてしか考えていなかったのではないか。
そもそも、ウルフウォーカーは物語の大半を何に使ったかを思い起こすと。
オオカミの躍動、オオカミの表情、オオカミの歌声を描くことに多くの時間を使っていたことに気づく。
明らかにステレオタイプのようなオオカミ像ーー気高く、強く、というものではない。
柔らかく、朗らかで、活動的ではあるが、どこか儚い生き物として描かれていた。
あまつさえ、オオカミがいかに『かわいらしい』生き物であるかをちょっと露骨に思えるくらい徹底的に描いた。
(ツボを抑えたケモノアニメの表現を意図的に選択している!!)
そんな『愛すべき』オオカミたちだから、「人間たちとは争わない」と決めたとしても、彼らはきっとそうするだろうと思えるのだ。
それは、これまでの戦いの物語の図式と、少し違っている。
「オオカミには戦う理由がないのだ」
「人とオオカミの生活圏の奪い合いなのだ」
といった理詰めの主張ではない。
「私たちは、そういう生き物なのだ」という説明のみがなされているのです。
つまりこの作品は。
オオカミたちによる、人間へのステートメントにすぎない。
私たちはオオカミだ。
私たちオオカミとは、どんな生き物だったのかの『再定義』。
そして、私たちは争いを望んでいたわけではない。
ということを2時間かけて主張していたのだ。
オオカミと人間との争いに終止符をうつ、休戦協定。
それを、オオカミを描写することによって説明する。
それが、映画『ウルフウォーカー』の正体だ。
オオカミによる、オオカミのためのオオカミの映画。
この作品を見て劇場で泣いている観客がいるとすれば、それは間違いなくオオカミだ。
その涙は、人間たちとオオカミが新しい未来を作っていけるという希望だろう。
同時に、これまでその戦いに払ってきた多くの犠牲、多くの情熱への……。
そして、コヨーテたち
「おめでとう、オオカミたち」
コヨーテはオオカミたちのその高潔な和平宣言を見て、号泣し、そして、抜け駆けしやがって、と毒づくのであった。
とにかく何が言いたいかというと、これまでのオオカミ映画で一番オオカミがかわいかった。
3500円としよう。