気圧で元気が出ない。
動物世相
プスタに生きる馬たち
世にも珍しいモウコノウマについての映画。
この間「レア動物はそのネタのみで映画が撮られがちだからクオリティがうんぬん」みたいな偉そうな事を言っておきながら、コヨーテはこういうに弱いのである。
この告知はもう終わってるけど、近日、他の場所でも公開されそうなので期待。
モウコノウマ娘ファン必見。(言いたいだけ)
ハウ
ワンと鳴けない犬の物語。
コヨーテはこういうにも弱いのである。
期待。
ゾウのニュースが3つ。
良いニュースと悪いニュースともう一つは、人間のニュース。
ゾウに限らず、体がでかい動物は寿命も長いだろうし、脳も大きいのだろうから、その分思考や感情も複雑なものを持っているのだろうと想像する。
その2つが絡み合った3つの側面のニュースが流れてきたので、それは動物の物語だなと思うなどした。
ゾウと人がともに物語を築いていける世の中にならんことを。
そして、実写版ダンボの話を思い出そうとしたらちゃんと感想を書いてなかったので過去の自分にがっかりした。
骨太の動物映画でした。
↓↓
一部の動物に特殊な感情持つ人のための格闘ゲーム、「モフモフ戦線」略してモフ戦の覚書。
半年もしたら忘れてしまうことばかりなので、記録として。
ダイフク
・空中浮遊から出せる技に中段攻撃はないのでしゃがみガード安定。
→ 空中浮遊から下段はでる。
・ノーゲージラビットホーン
→ レバー6+小+大+特殊と入力すると、ゲージを消費せず強制キャンセル対象のラビットホーンが出る。
→ 厳密にはノーゲージではなくて、ゲージ1/4溜まってないと出ない。
→ たぶんバグ。
・対空からのダメージ強化
→ 画面中央でも対空霞斬りから超必殺技がはいる。
→ 1中P〜ES霞斬り〜超必殺技も入る。
→ これがダイフクさんのメインのダメージ源の可能性が高い…
Switchのインディペンデントの格闘ゲーム、モフモフ戦線を買った。
モフモフ戦線 ダウンロード版 | My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)
率直な感想としては、マニアックな人気を誇る格闘ゲームの黎明期にありがちな、「一体何が起こるかわからない感じ」みたいな取っ付きの悪さとワクワク感が融合したやつを感じる。
さっそく練習したけど、
・順押しコンボを空キャンセルして必殺技を出す、がデファクトスタンダードになってる
・なぜそのキャラにそのシステムを付けた? みたいな壮大な謎とき
この辺を解き明かすのに熱中し、久しぶりに徹夜してしまった。
Wikiをなぞる格闘ゲームの遊び方に飽きているあなたにおすすめ。
耳で攻撃するウサギをあなたも見たいはずだ。
犬の性格は犬種に関係ないというニュースが目に入った。
「従順さなどの犬の性格の違いのうち、犬種の違いで説明できるのは全体の9%程度」という分析で、じゃあ9%の違いってなんなんだろうと気になりました。
牧羊犬かどうかみたいな部分だったりするんでしょうか。
で、本題なんですが。
先日、シング2……もとい『SING/シング:ネクストステージ』を見たのだけれど。
その時の感想は、ほぼ1作目のSINGを見たときと同じで、「複雑さを求められない楽しくかわいい動物映画」という感想だった。
でも、1作めの2018年の公開からもう5年経つわけで、冷静に振り返ってみるに、当時の自分は、その『複雑であるかどうか』を動物映画の最優先の尺度としていたのだと思う。
つまり、「複雑でない動物の映画は、あまりクオリティが高くない」という観点で、自分は動物映画評を書いていた。
もちろん、その視座にたっている理由はあって、それは動物と人間の関係の学問が発達してきたことが影響している。
動物映画は、そもそも昔から「かわいい犬が出ていれば(中身がなくても)それで売れると思っている」みたいな批評がつきものだった。
それに、例えかわいくない動物であっても、「エキゾチックな珍しい動物」についてはそれ1匹で映画が1本十分に撮れる、みたいな性質もあった。
これは、すごく雑に言うと科学の発達=人間の行動範囲の拡大=地球の探索の深化=新生物の発見みたいな歴史があったからだと理解している。
(そもそも動物園というのが、歴史上そういう観点から発達してきたからだ)
そういう類いのことを、僕は端的に「複雑ではない動物映画」と評していたのだと思う。
でも、20世紀も終わりに近づくと社会構造の変化や、環境破壊、野生動物の絶滅、保護、といったテーマに加えて、人間が動物とどう関わっていくべきか、という、科学でもあり、哲学でもあり、さりとて宗教でもあるテーマを動物映画が持つようになり、それは『複雑な構造』を描き出しがちだった。
だから、『複雑さ』を持っている動物映画は、動物を物語ることについて何らかの決意がある、という点で、自分は高く評価していたというわけなのです。
で、最初に戻って。
シングはそういう映画ではなかった、という話なんだけど。
2022年になって新しくなったシングを見たとき、すごい衝撃があった。
衝撃というか、恐怖に近い感情だったかもしれない。
それは、自分の中に旧時代の偏見みたいなものを発見してしまったときの恐怖ーー
つまり、「動物に動物らしい振る舞いをさせようとしているのは、歴史の尊重ではなくて、偏見の再生産なんじゃないのか?」ということの発見だった。
動物らしさとはなんだ?
その動物をチョイスしたときに語られねばならないものとはなんだ?
それは、彼らが望んだことなのか?
それをなぞらせることが、動物の物語の役目なのか?
これこそがまさしく、「動物ポリコレ」以外の何物でもなかろう。
映画シングの登場人物たちは、誰も彼も、もう動物であることを押し着せられることに飽き飽きしているように見えた。
だから、彼らは「本当の自分をさらけ出せる場所」として、エンターテイメントの舞台を選んだ。
2作目になって、一廉の成功を収めた彼らであっても、その本質的な衝動と悩みは変わっていないようだった。
そんな等身大の生き方を、「コアラらしくない」「ハリネズミらしくない」と指摘することに何の意味があるのだろう?
彼らはそれを嫌うから、歌と踊りを磨いたのだろうに。
小説、映画、アニメ、Twitter、YouTube、メタバース……。
動物たちは人間の文明の発達とともに、自己表現の場所を拡大してきた。
人間と同じツールを使って、動物たちは自分たちの言葉を発することができるようになったのが21世紀の今だ。
そんな彼らの言葉を、人間のためではなく、自分たちのために使うーー動物が動物らしく振る舞わなくていいために使うことの、何が悪い、と。
シングは、最初から、昔っからそういう映画だったのかもしれない。
犬の性格の新事実に関するニュースを見て、そんなことを思い出した。
自分も、犬の物語を語るとき、犬が犬らしくあるということにこだわりすぎていたかもしれないな、と。
……だとしても、という話で。
結局、コヨーテは、犬の物語が好きだ。
結局、『自分たちが【人間たちに求められる存在であること】の証明を、何よりも求めているのが、犬という生き物なのではないか』という幻想を捨てずにはいられないのである。
だから、居場所を見つけた犬たちを見ると、それが現実であろうと虚構であろうと、幸せな気持ちになるのでです。
1作目の感想
↓↓
MTGの新弾バルダーズゲートのトレーラー
普段からD&Dも知ってる風にしているがこのネズミくんが誰なのかは知らない。
https://www.youtube.com/watch?v=sYqRQMIXIY0
世界のアイデアはだいたい出尽くしていて、
今あるものは組み合わせでしかない、だから「目新しさ」という考えは愚かだ
というのは半分は賛成なんだけど。
でも、もう半分は「新しいものばっかりだよ」という気持ちがある。
デファクト・スタンダードというか、
「その固有名詞をもって、なにかを言い表せてしまう代表格になってしまう」というのは、
それは新しい表現であると言って良いと思っている。
でも、動物映画で考えると僕がターニングポイントだと感じた作品の名前を使って
「ズートピアみたいなやつ」とか「ビースターズみたいなやつ」みたいな言い方の評価があまり言われてるのを聞いたことがないから、
あの辺は正統派なんだなあという気持ちがしている。